人間とは意味という病に憑かれた存在であるとでも言えばいいのか
じぶんがしていることに意味が見いだせた時にはそれに「生きがい」とか
「働きがい」を感じて頑張ることができるが、逆に意味を見いだせないと、
力が抜けるというか、空しくなって投げやりにしかできなくなる。
帝政ロシアの話だが、流刑地に送られた囚人たちに課された刑罰として、こんなのがあったという。バケツが二つある。右のバケツに水がいっぱい張ってあり、それを左のバケツに移す。それを今度は右のバケツに戻す。それを延々と限りなく続けるという刑罰である。
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仕事には「義」が要るのである。「義」とはわれながら古い言葉をもちだしたものだとおもうが、要は、なんらかの「公的な意味」と考えてよい。
それを果たす「務め」を仕事のうちに感じたとき、人は仕事に打ち込むことができる。
戦後社会が1980年代に高度消費社会のかたちをとるようになって、「義」というものがとても見えにくくなった。「ニーズ」などといった流行語とともに、生産と流通とは人々の欲望に応えることを目的としだしたからである。
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「生産」から「消費」へと企業活動の照準点がスライドしてゆく中で
「経済」という観念から「経世済民」(世を治め、民の苦しみを救うこと)という
本来の意味が脱落していった。
金があれば手当たりしだい何でも買えるという予想で動いてはいるが、
金によって何を手に入れるのかという構想はそこには見あたらない。
「意味」がない、「義」が見えないのである。
右のバケツの水を左のバケツへ、そしてまたすぐに右のバケツへ・・。
マネーゲームはあの帝政ロシアの刑罰と同じことをくりかえしてきたかのように見える。
それはまるで、「義」を見失った「経済」への刑罰であるかのごとくに見える。
~『人生はいつもちぐはぐ』著者 鷲田清一 角川文庫より抜粋~
生きてきてそしていきてゆくなかで実感したこと。
この現代社会においてお金で買えないものがある。
それは私が思うに
言葉でいうと『感性』かな。
この『感性』がこれからとっても必要とされる時代が来てる気がします。
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お茶でも一服しながら・・。